教えるということ
昨夜は少林寺拳法修練の夜でした。
週末の大会に向けて、子供たちの目が本気モードになってきています。
私は夫の転勤について全国を転々としてきましたが、そのたびに転籍を繰り返してきました。少林寺拳法は他の武道のように流派がないので、全国どこに行っても同じ修練ができます。それでも道場によってカラーがあるので微妙な動きの違いは多々ありますが、全国に知り合いやお友達ができるのは、大人になっても楽しいことです。
数年前から通っている今の道場では、微力ながら、初めて少年部の指導に関わらせていただいています。
私も二人の子供たちを育ててきましたが、ひと様の子どもたちが可愛くて仕方ありません。その子供たちをグループに分けて、数人の大人がそれぞれ技法を教える時間が時々あります。
そこで、最近やっと気付いたこと。
自分の子供たちが中高生になり、その子育ての反省も活かされて気付いたこと。
「教えない」ということ。
上受け突き→上受けをしてから突く
上受け蹴り→上受けをしてから蹴る
内受け突き→内受けをしてから突く
じゃぁ
「内受け蹴りはどうする?」
小学校低学年くらいまでなら、こんな感じでしょうか。
すぐに教えない。
自分で考える。
間違ってもいい。
自分で考えたことは、人からただ教えられたことよりもぐっと頭に入ります。
少林寺拳法は護身術です。
手首を掴まれた、腕を掴まれた、そんなシチュエーションがたくさんあり、抜き技もたくさんあります。
小学年中学年くらいからは、ぐっと手首を掴んで
「とってごらん」
どうやったら抜きやすいか、どうやったら自分の力が有利に働くか、ヒントを出しながら答えを導かせます。
そして、抜けた!
自分でできた!というその時の目は、輝いています。
(そのあとは「すぐに逃げる」ということが大事。子供たちは武道をやっている自信からか、やり返すということをしがちですが、力の差は歴然で戦うことは賢明ではないと、そこはしっかり教えます。)
技法をすぐに教えると、教える側も楽だし時間もかかりません。
でも、最短距離がいいとは限らない。
もちろん、ケースバイケースですけど。
投薬時に「さてさて、この薬は何でしょう?」なんて言ったら、患者さん激おこです。
人生も同じように考えたら、ほんの少し余裕ができると思うんです。
自分で考える。
寄り道でも回り道でもいいじゃない。
舗装された綺麗なコンクリートの道より、くねくねした回り道で、草花や虫たちに魅了されて立ち止まっても、いいんじゃない?
そのあとで手に入れたものって、自分の宝になる。
子育てと少林寺拳法を通したら、足掛け15年かけてやっとわかったこと。
「教えるということは、教えないということ」
最短距離ではなかったけど、これだけ時間かけたからこそ、ぐぐっと自分の頭に入りました。